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2010年1月14日アーカイブ

7 その後

       この大修理を経て、この230GE生まれ変わりました。

    ヤナセで、車検、定期点検、修理を重ねて、メカの不安は一掃されました。その後は、エアコンの機能の

    うち、冷房が故障し、専門業者に修理を依頼したことが、大きな苦労でした。

    冷房の機能は今でもとても弱いです。

 

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5  エンジンの破損について

   法定点検の2ヶ月後、年末に、私は、帰省のため、230GEで、家族と熊本へと向かいました。

  福岡都市高速を天神北インターから大宰府インターまで時速 70キロから80キロで走り、九州自動車

    道に入り、約90キロで走りました。

   私は、熊本へ帰るときは、途中、基山と広川のパーキングエリアで休むことにしています。

  この日、基山パーキングエリアまでは、正常だったと思いますが、広川パーキングエリアに入る頃から、

    少し本件車両に異音が聞こえるようになりました。

   アクセルを踏んだその足先からカランカランと何か引っ掛かるような異音がしていたと思います。

   私は何か接触が悪くなったのだろうと思い、広川パーキ ングエリアを出発しました。しかし異音はおさま

    らず、気になりました。予定した南関インターで高速道路を出ましたが、料金所で止まって窓を開けると、

    もは やエンジンはバタバタと大きな音とあげており、明らかな異常を感じました。

   そして、500メートルほど走ったところで、エンジンがメリメリメリと異常な音を発して、停止しました。

   私はあわてて車を道路の左端へ寄せて止めました。私はJAFの救援要請をしました。

    車両はJAF加盟の業者に預かってもらうことになり、その後、私たちは、熊本から親に迎えに来ても

    らい、帰省しました。

 

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6 本件車両の修理

          年明けに、車両はヤナセに運ばれ、修理されることになりました。

      ヤナセの担当者によれば、エンジンのシリンダーブロックを交換しなければならないとのこと で、ドイツ

    本国から輸入することになりました。

    原因は、シリンダーにエンジン冷却水が入り、ウォーターハンマー現象で、ピストンが破裂したというもの

    でした。

    修理代は、163万9619円でした。修理に5カ月を要しました。

    この修理の過程で、この車両には、セダン車ベンツ230Eに載せられていたエンジンが乗せかえられて

    いることが判明しました。

       修理を終えて、この車両に乗って気がついたことは、エンジン音が修理前と違って実に静かであること

    です。

4 車のコンディションについて

 

    (1)  購入後、まもなく車の発進時に、キュルキュルキュルと異音が発生するようになりました。

      私は、購入した販売店は県外なので、行きつけの業者に車を持ち込み、修理を依頼しました。

      業者はオルタネーター(発電機)のベルトが緩んでいたとのことで、調整してくれました。修理代は

      金4200円でした。

          その後、私はこの車両で高速道路の大宰府-福岡間を試走しました。すると、車の速度が時速

         80キロ を超えたりすると、ハンドルがぶれることがわかりました。

   

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    (2)  私は、運転席からの後方の視界が悪いので、バックセンサー(後退中に障害物が近づくと警告音

        を発するセンサー)をつけ、さらにバックモニターをつけること にしました。バックモニターとは、車の

        後方の窓にカメラを付け、車をバックギアに入れると、カメラの映像が車用テレビの画面に写し出さ

        れるものです。その ためには、私はカーナビゲーションを設置しました。

      その時、カー用品店の店員から、カーナビゲーションの本体を助手席の下に設置することにしたが、

        助手席の床が濡れていて、雨水が漏れていることも考えられるので、後部座席下につけることにす

        ると説明を受けました。

          私は、驚いて、助手席の床の状態について注意するようにしました。すると、雨が降った後に、必

       ずと言っていいほど、助手席の床がびしょびしょに濡れていることに気が付きました。

          私は、助手席への雨漏りの修理を行きつけの業者に頼みました。

       業者は、高速走行時のハンドルのぶれは、タイヤのホイールバランスの狂いが原因だとして、 ホイ

       ールバランスの調整をしてくれました。また、雨漏りについては、左のドアからの雨水の浸入が原因

      ではないかとして、ドアのゴムを換えてくれました。また、前輪のブレーキのキャリパーがさびついて

      いたとして、調整してくれました。この車両は前ブレーキは全く機能しておらず、後輪のブレーキだけ

      で制動して いたのです。この時の修理代が金13万6143円でした。

 

 

    (3)  しかし、助手席への雨漏りは、一向におさまりませんでした。

       悩んだ挙句、私はメルセデスベンツ車の正規輸入ディーラーであるヤナセに、雨漏りの修理を依頼

       しました。するとすぐに原因がわかり、修理してくれました。

         雨漏りの原因は、ウィンドウ・ワイパーのシャフトの付け根がさびついて、雨水を防ぐカバーが シャ

      フトにくっ付いて動いていたからだと説明してくれました。この時の修理代は1万9635円でした。

        それ以来、助手席の床への雨漏りは全くなくなり、私 は「ヤナセはさすがに修理技術が高い。」と

      感心しました。

 

 

   (4) 私は、購入10ヶ月して、ヤナセに法定点検を依頼しました。法定点検では、エンジンオイルの交換を

      実施しており、全ての代金は、5万6658円でした。

      この時、ヤナセの担当者は、「エンジンがカタカタいうようです。今すぐ修理は必要ありませんが、次回

      にはエンジンを開けてみた方がいいでしょう。」と言いました。

 

2 車両購入の経緯

    私 は、ある輸入中古車雑誌の広告で230GEが168万円で販売されているのを見て、広告主の中古車販売業者に電話しました。社長は、走行距離ははっきりし ないが、車内はきれいで、この車種は、タイミングベルトは使用しておらず、タイミングチェーンを使用しているので、タイミングベルトが切れるというトラブ ルは心配がないなどを説明してくれました。

  私は、購入することにしました。代金諸経費で215万1400円でした。このうち、150万円は銀行のマイカーローンを使い、残りは預金から用意しました。

 

3 車両引渡しを受けて

    私は、数日後、車両を受け取りました。私は、担当従業員にスイッチ類の説明や操作の説明を受け、助手席に乗ってもらい、付近を一回り乗ってみました。 2300ccのエンジンで2トン前後の車体を動かしているので、アクセルを踏んでもじわっと動き出すだけで、重たいなと思いました。担当従業員は、加速し なければならないときや、坂道を登るときは、アクセルを強く踏み込んで下さい、とアドバイスしてくれました。

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1 メルセデスベンツ230GE購入の動機

 

私は、ゲレンデバーゲンという車が、軍や警察で使用される本格的4WD車であることを知り、資料を集めたり、現物を中古車業者まで見に行くようになりました。しかし、新車は800万円以上する高級車でとても手が出ません。しかも希少車のため、5年経った中古車でも500万円位するので、手が出ませんでした。

そこで、私は、昭和62年頃から数年間輸入されていたゲレンデバーゲン230GE(またはGEL)あたりを購入の対象と考えました。

 

UFO目撃

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 私は、26歳の時、UFO-空飛ぶ円盤を目撃した。

 当時、私は福岡市内の小学校で夜警のアルバイトをしていた。昭和59年(1984年)2月21日火曜日の午後7時過ぎのことである。運動場で、ふと上空を見上げると、かすかに光る2個の物体が浮かんで静止していた。私は、“鳥かな”と思ったのであるが、その物体は、すうーっと動き出し、その小学校のあった福岡市の都心部から、福岡空港のある方面、糟屋郡志免町の方面へ飛び去ったのであった。以下は、私のその日の日記の抜粋である。


 『7時の見回りのとき、運動場を横切って歩いていると、視界の後方から光る物体がとび込んできた。二つの光体は、音もなく、しかも速い。目をこらすうちに、体育館のかげの方に消えて行った。南東に飛び去ったのである。UFOにほぼ間違いない。ただ、まわりに誰も見たような人はいない。興奮して、剣道の低学年生に話した。そして、連絡帳にも、余談ですが・・・として報告した。こうして残しておくと、他の情報と符合することもあるからだ。今まで見たUFOよりも、今日のは、ずっとそれらしかった。飛行機ぐらいの高さだったのだろう。以前中学生のころに、家が停電となり、外に出て、星を見るうちにUFOを見たことなどが、たびたびあった。不思議と火曜の7時ごろだ。何かわけがあるのか。』

 


 私の考えは、UFOは、空を頻繁に長時間見ていると、高い確率でUFOを目撃することはできる、というものである。ただ、日本人の大多数は、日常生活に忙しく、空を長く見ることが少ないのである。私は、残念ながら、その後、UFOを見ていない。

夜空.jpgのサムネール画像

 

5 おわりに

  私はこの中国東北部への旅行で多くのことを学んだ。現在の中国の経済的発展は目覚しく、日本人との交友関係も保たれているが、中国国内には厳然として日本侵略の傷跡が残り、戦争の悲惨さを訴えつづけているのである。

  私たちは、戦争の恐ろしさを決して忘れてはならないのである。

 

 『平和を実現する人々は、幸いである、

 その人たちは神の子と呼ばれる。

  (マタイによる福音書5章9節)

3 西安炭鉱跡

   翌日は、朝から、乗用車とドライバー、ガイドを手配し、西安(現・遼源)へ向かう。中国における高速道路の発達と携帯電話の普及に驚く。2時間半余りで西安へと着く。観光地でもなく、ここに立寄る日本人はほとんどないと思われた。地元の住民に聞きながら、廃坑となった西安炭鉱跡へ着く。日本は満州において炭鉱の開発に力を入れるが、中国人炭鉱労働者への酷使はひどく、中国の人々の心に深い傷跡を残したようだ。

  ガイドは近くの炭鉱の記念施設に案内してくれた。「日偽統治時期遼源煤砿死難砿工墓」と記されていた。奴隷的な使役や坑内事故により、多くの中国人労働者が死に、その死体は葬儀もされず、埋められたのであろう。労働者の人骨が発掘された場所にそのままの状態で保存・展示されており、当時の日本の強制労働への抗議の意思が示されていた。

 

4 731部隊

   長春の滞在を終え、再びハルピンへ戻る。

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      ハルピン駅は、1909年に伊藤博文が日韓併合に反対する朝鮮の志士安重根により暗殺された場所だ。

  ハルピン市街から南へ20キロほど下ると「侵華日軍七三一部隊罪証陳列館」がある。石井四郎軍医中将の統括する731部隊は、この地で細菌兵器等の開発を行ない、1939年から終戦にかけて、3000人といわれる中国人、ソ連人、朝鮮人を実験により殺害したという。

  

 

      この施設の建物は、なんとごく最近まで中学校として使用されてきたという。

      この度、新たにその建物を史跡として保存し、展示室もその中に移されていた。展示室には、発見された731部隊使用の医療器具・道具類、実験を再現した人形、犠牲になった抗日運動家の写真など、どれも悲惨な事実を世に問うている。広場には、地下の実験施設が破壊されて地面のくぼみとして露出していた。ここで恐しい実験が行なわれていたのだと思うとぞっとする。さらに、731部隊が敗戦時に爆破しても崩れなかった動力班のボイラー室の2本の巨大な煙突がそそり立っていた。真に原爆ドームと同じく、反戦のシンボルである。

 

3 長春にて

   ハルピンに到着すると、ツアー客は、それぞれの郷愁の地へ班ごとに別れて旅立った。内蒙古自治区のハイラル、満州里、黒龍江省のチチハル、牡丹江、遼寧省の瀋陽(旧・奉天)、吉林省の吉林、延吉と行き先は様々だ。

   そして、各人の思い出は、ときに戦争の悲劇そのものだ。80歳を超えたある老婦人は、引き揚げの途中、3人の子を病気で亡くし、遺体を埋めた地を訪問して線香をあげたいという。

   私と母は、吉林省の省都長春へと向かった。満州鉄道を南へ下る旅である。行けども行けども広大な大地が続き、景色はほとんど変わらない。中国大陸の広大さに驚く。ツアー客は満州時代の思い出話を懐かしく語る。

   長春に着くと、「偽皇宮陳列館」を訪ねる。満州国の皇帝、溥儀の皇宮である。

偽皇宮陳列館.jpgのサムネール画像


 

   中国では、満州国を国と認めず、「偽満州国」と称している。そこで、「皇宮」は「偽皇宮」となる。溥儀が生活していた建物がそのまま展覧されている(「緝熙楼」)。溥儀は、日常的に関東軍吉義岡安直により監視されており、満州国とは、まさに日本の傀儡であったことがわかる。その他、「偽満州国国務院」など満州国の建物が、現在も使用されて、当時の面影を伝えている。

 

 

  長春の市内を観光すると、母の通った白菊小学校を訪問した。現在は、中学校としてそのままの形で残っていた。母の当時の住居を探したが、建て替えにより、残っていなかった。しかし50余年ぶりに訪れた母の感激は、計り難いものがあった。

 

1 旧満州への旅行

  私の母は、満州からの引き揚げ者である。1933年生まれの母は、祖父が満鉄の経営する炭鉱の技術者養成校の教師となったために、幼少期に長崎市から満州へ渡り、満州国の首都新京(現在の長春)及び近郊の炭鉱都市西安(現在の遼源、シルクロードの起点・長安とは異なる)で小学生時代を過ごした。

  母は、かねてから、生まれ育ったこの地への訪問を夢みており、ようやくその夢がかなって、2001年(平成13年)6月、旧満州への旅行となったのである。

  同伴者は長男の私である。

 

2 空路ハルピンへ

  出発の日、福岡空港国際線ロビーには、満州へのパック旅行の参加者が多数集まった。その大半は、60歳を超えるお年寄りで、満州からの引き揚げ者である。

  福岡空港からチャーター便で、ハルピン空港へ飛ぶ。約3時間の旅程である。途中、旅客機の窓から、近くをジェット戦闘機が飛行しているのを目撃した。北朝鮮の空軍機のスクランブルではないかと思った。